友達の定義をはき違えることは子供の教育によろしくないのか
どうも。伊藤さんです。
さてさて、
今回も前回に続いて子供の教育面から考える
友達という言葉の使い方についてつらつら適当にかきます。
前回の記事はこちら。
トモダチを多用すると自分の領域がわからなくなる?
さて、
前回の記事で親が子供に対して発する
「トモダチ」という単語には、
本来の友達の意味は全くなく、
子供の教育上都合がいいから他の子供をトモダチと呼んでいるだけ、
っということを書かせていただきました。
温かみのある言葉である”トモダチ”という単語を使うことで
他人への思いやりを学ばせるということがこの言葉の裏に隠されているから
親が”トモダチ”を多用するのです。
さて、それでは逆に子供目線から見てみましょう。
1回目の記事でも書かせていただきましたが、
友達がどういったものかについては幼少期から理解しはじめ、
成長するにつれ自分にとってどんな人が友達なのか、
どの人が自分にとっての友達なのか、
ということを細部まで明確化していくのだと思います。
子供には子供の世界があり、
その世界の中で友達を作っていくという当たり前のことを、
当たり前に行っていくのです。
そんな具合で、自分の中での友達を形成しているにも関わらず、
大して仲が良くないよその子を”トモダチ”と呼ばれると、
大混乱だと思います。
大して親しくもない子なのに、
親はその子のことをトモダチと呼ぶ。
子供としては「その子は友達ではない!」と思うところでしょうが、
友達ではないことをはっきりと否定することは憚られます。
なぜならば、よく知りもしらない子なのに、
友達ではないと真向から否定することはひどいことなのではないだろうかと考えてしまうのです。
恐らく小さな子供の頭の中では、
友達ではない=仲は良くない=嫌いな子
っという図式が出来てしまっているのだと思います。
つまり友達ではないと主張することはその人のことを嫌いな人と言っていることと同義なのだと考えてしまうのです。
もちろん、本当に嫌いな人である場合は真っ向から友達ではないことを否定することになるのでしょうが、
よく知りもしないのに真っ向から相手の存在を否定するようなことは、
”思いやりのある子”であればあるほどできなくなってしまうのです。
この思考はこの思考でよい面もあります。
「良く知りもしないのだから、友達になる可能性があるのかもしれない」
よくしらない他人でも敬うことができる子供は、
ある意味とても素直に思いやりのある人に育っていっているのだと思います。
しかしながら、親が”トモダチ”を多用することは、
子供の自我を育てることの弊害になるのではないかとも思ってしまいます。
っというのも、
友達の形というのは人によって違います。
同じ人でも、A君からは友達と思われているけれど、B君からは嫌われている
なんてことがざらによくあります。
上記のように、人によって友達の形は多種多様であって、
その友達という枠を決めているのは自分、
つまり”自我”が自分の中での友達を決めているのです。
そんな具合に自分の中で決めた友達の枠という自我が、
親の発する”トモダチ”という言葉で
崩壊してしまう可能性があるのです。
あの子は一緒にいても楽しくないから
友達ではないけど親は”トモダチ”と呼ぶ……
仲良くしなきゃいけないのかな?
仲良くしない自分が悪いのかな?
という感じで混乱する可能性も十二分にあります。
もちろん誰に対しても優しく接さなければいけないということも、
それはそれで重要なことなのだとは思いますが、
自分の目でどういう人間かを観察して、
自分の頭でどういう人間かを考える工程がなくなると、
自己の形成が出来なくなってしまうのではないかという懸念がつきまといます。
つまり誰彼構わず”トモダチ”と呼ぶことで、
子供の思考する機会を失わせていることにもつながりかねないなと
昼下がりの公園の美人ママを見ながらこの考えに至りました。
親としては、まずは誰とでも仲良くするという
平和的な理想論を子供に教えてあげることも重要だと思うのでしょうが、
成長するにつれいろんな人間がいることを知った後に、
自分の思考を捨てどんな人間であれトモダチづきあいをしなければいけないという考えは
自分自身を壊していくことになるのではないかと僕は結論付けますので、
世の親御さんはバランスを見ながら”トモダチ”という単語を使うことをお進めします。
まとめ
美人ママさんが使う”トモダチ”という言葉には、
あらぬ方向に子供が育ってしまうことも孕んでいるいることを、
コンコンと書いてきましたが、
じゃあどうすればいいんだろ?と考えても
僕の陳腐な脳みそでは代替案が一向に出てきません。
”トモダチ”に変わる言葉があるといいのですが、
僕の語彙力だと”こいつ”、”やつ”、”そいつ”とかいう汚い言葉しか出てこないのです。
他人を”そいつ”呼ばわりしていると
それはそれであらぬ方向に子供が育ちそうなので、
本当に子供を育てるって大変だなと、
僕は昼下がりの公園で子供を追いかける美人ママのお尻を見ながら想いにふけるのでした。
以上。
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